SHIINBLOG

Liva's anything about...?

都内で活動中の本格派アコースティックユニットLivaealのブログです♪

盗作の境界線はどこなのか?

どもどもdeeです。

「と」で「盗作の境界線はどこなのか?」でいこうかと思います。

昨今、世の中では盗作の話題が毎日のように上がってきます。

音楽を作る、新曲を作るものにとって難しい問題です。
盗作について、ちょっと考えてみます。

・積極的にパクる音楽も存在する。

フレーズを真似て弾いたり、メロディをバクるに留まらず
ヒップホップなどのサンプリング主体の音楽は
オリジナルの楽曲の一部をそのまんま使用するスタイルの
制作方法です。

元々、アンダーグランドな黒人ダンスシーンで
2次制作物的な遊びが、メジャービジネスとなり
権利関連で揉めるようになり、フレーズ使用に許諾が必要な流れとなりました。
フレーズ使用の許諾に売上の90%を要求するのも普通にあったようです。

サンプリングの手法自体は90年代、機材のデジタル化に伴い
大きく発展し「ヒット曲のそのまんまパクり」という安易な商業的な成功を
許さないといった形に落ち着きました。
今ではサンプリング用として著作権フリーの音源が
販売されていたり、ネット上で提供されていますが
大きな意味では「そのまんまパクる」という手法は今日も使われています。

これをバクりだから悪とするか否か。
発生した文化の自由さを考えれば、息苦しくなりました。
それでもカニエ・ウェストようにやはり過去のヒット曲をサンプリングし
今日のヒットに繋げていくミュージシャンもいます。
全く道が閉ざされたわけではありません。


・曲がもつ印象すら盗作と認定される

ちょっと前にマーヴィン・ゲイの遺族がロビン・シックの曲を
盗作だとして訴えを起こし、音楽的な知識のない陪審員が下した判決は
著作権侵害を認め740万ドルの賠償金支払いを命じるものでした。

キーや譜面上の音の並びは全く違う曲として、控訴しました。
過去の判例では、メロディやフレーズに関する権利に限定されていました。
今回は、使用したサウンドやアレンジスタイルの雰囲気が似ていることも
盗作と認定されました。

マーヴィン・ゲイといえば男性R&B、Funkではスタンダードと言っていい存在ですし
影響を受けず曲を作ることができないのは、才能がないからなんでしょうか・・・。

マーヴィン・ゲイがイノベーターであることは認めますが
今後、マーヴィンのような雰囲気を持つ曲が作れないって
制作者は元より、リスナーにとっても不幸ではないでしょうか。

ギタリストで考えればイングヴェイ・マルムスティーン
トニー・マカパインやクリス・インペリテリを訴えれば勝てそうだし
イングヴェイリッチー・ブラックモアには敗訴しそう・・・。

先駆者へのリスペクトはもちろんありますが
お金が絡むとなんとも悲しい気持ちになります。

・模倣することは罪なのか?

「偏見のなかの日本現代美術」より

「全ての創造は模倣から出発する。
そして、創造の真の意味は創造であるためには、
その創造のための模倣が、
創造的模倣でなければならない。
もっと簡単に説明すれば、
芸術家の盗み方の創造の秘訣は、
あるいは独創性が隠されているのである。」

モノを作ったことがある経験があれば
先行作品の研究なくして良い作品が生まれてこないことは
わかると思います。

ギターという楽器を学べば先人たちが作ってきたルール上に
まず乗っ取って弾き方を覚えていきます。
ピックを使う・・・。コードFを覚える・・・。
Emスケールを速弾きする・・・。
模倣なく、その楽器の弾き方を覚えていくことができないし
伝統的な純度が高い音楽ほど、ルールから外れた
コード進行やメロディラインは「らしくない」ものになってしまいます。
そういった音楽は模倣という継承行為によって純度が保たれていきます。

何を模倣するか?

ブルースから影響を受けたリフ、ボサノヴァから影響を受けたコード進行、
ファンクから影響を受けたビート、ヒット曲から影響を受けたメロディ。
模倣のスタート地点から個性は発揮されます。

模倣は制作に必要な過程であります。

・盗作を考える
すでに世界で発表された楽曲というは総数で何曲あるのか把握できない
数にのぼり、悲観的な言い方をすれば新しい曲をリスナーが求めていないのかもしれない。
先のマーヴィン・ゲイは既に他界しているし、
ライブでリアルタイムに時間を共有することができません。

ネットが登場し楽曲単体は、商品の価値を失いつつあります。
結局は急速に発展していき、昔よりも旬が短くなっていく楽曲の存在に対する
新しい価値や落ち着き所が必要なんだと考えてます。

それでも作曲できるものは、新しい曲を作り出したい。
研究した成果を素直に出すのも、ある種の純粋が成せるところもあり
悪意ばかりでは語れないのでは?と考えます。

ならば盗作の境界線はどこなのか?
誰かの創造的な創作物に対し、安易なタダ乗りは軽蔑されるのは当然でしょう。

先日のオリンピックのエンブレムが、あそこまで憎まれたのは
影響を受けた話は一切なくただただデザインが酷似していることではないでしょうか。

一方で、音楽は既に12音階の組み合わせでは既に出し尽くされた感があります。
リズム感や自分が生み出すトーンに個性があれば、楽譜上同じ音列が並んでいても
その人だとわかる差別感が生まれます。
さらに作曲であれば単曲のみならず、トータルで出す作品に連続性が必要になるのではないでしょうか?
以前からあるものに自分というフィルタをかける。
フィルタが強烈であればあるほど、原曲の感じ薄らいで本人の純度を保てるのではないかと考えてます。

現代に曲を作るものは、古い歴史から学び新しい進化を目指していく必要があるのですねえ。
或いは、聞いてる人が「盗作だ」と感じれば
多大な創造的努力を払っても、やはり盗作の烙印を押されてしまう
時代なのかもしれませんねえ。

次回は「か・が」で願いー。